自分ひとりではない、の話。
今日のブログは、なんとなあく、書いています。
あまり深く読まないでください。(笑)
成長するにつれて、色々と気付く事がありますね。
自分の力が分かったり、限界が分かったり、伸びしろが分かったり。
まず最初に、自分の事に気付くことって多と思うんです。
まあ、たまに過信してみたり。
成長の過程で自分が何でも出来るような錯覚、よくあると思います。
また、今ある自分の環境が当たり前だと思う感覚、これもあると思います。
これって大人になっても意外と気付かなくて。
日常の怖さってこういうところなんだなあと思うんですね。
たとえば、僕の今の環境って、見る人から見れば幸せだよな、って思われると思うんですね。
両親と一緒に住んでいて、子どもにも恵まれていて。
なんだかんだ言い合いながらも、協力して生活をしています。
ちょっとした時に、両親に相談できたり、嫁さんがいない時にご飯を作ってもらったりよそってもらったり。
生活の中で当たり前に過ごしていることなんですが、当たり前ではないんですよね。
支えられている、と言うと大げさかもしれませんが、何かしら支えあって生活や仕事をしています。
ふとしたことでそれに気付く事があって、気付けた事がとてもよかったな、なんて思うことがあります
たとえば、先週、うちの母が熊本の知り合いの所へ6日間ほど出かけていました。
母の分の仕事をするのは当然なんですが、自分の仕事の事も、普段と違い手間取るわけですよ。
で、そこでふと気付くんですね。
ああ、いつもはこういうところを母がやってくれていたから、自分は安心して配達に出かけられていたんだなあ、と。
いい大人が、自分が動くと言う事は回りもそれをサポートするように動いてくれているから、ストレスなく動く事が出来る、と言う当たり前の事を、自分が体験をしないと気付けない、と言うわけですね。
書いていて自分が情けない・・・・・。
まるで子どものようだなあ。
子供の頃、やはり同じようなことがありましたね。
当たり前のように食べる食事。
当たり前のようにかける電話。
当たり前のようにつけていた電気。
そこにあるものが全て当たり前で、何の疑いもなく生活をしていました。
うちを出て、一人暮らしをして。
そこで初めて、当たり前が当たり前ではないことに気付かされるわけですね。
電気を消さなければ、電気代がかかる。
ご飯だって、自分で買ってきて用意しなければ食べる事も出来ない。
そもそも食材を用意しておかないと、何もない。
まあ、不便なんですよ。
あらためて、家のすごさを思い出したっけなあ・・・・・。
たぶん、仕事もそうなんだと思います。
僕は会社に務めたことはありませんが、会社って所は、皆がサポートしてくれるから成り立っているんだろうなって。
みんな一人一人頑張っている。
一見、誰も助け合ってないように見えるけど、見えないところで、助け合っているから自分も安心して仕事が出来る。
大変な職場でも、見えない協力やサポートが合って、成り立っているんだろうなあ、なんて思うんですよね。
気付く人は、その中にい手も気付く事が出来る。
気付く事が出来ると官舎の気持ちを持つことが出来る。
僕みたいに、気付くのが遅れると、自分ひとりになった時に付けが回ってくるんですね。
会社を辞める時に、御礼をしてやめる、って今はあるのかなあ。
今はどうなんだろう?
丁稚奉公・・・・・、なんて今はいいませんか、仕事を覚えるために働いている人たちは、お礼奉公としてやめる前に余計に勤め上げると聞いたことがあります。
会社だって、親だって、人一人の面倒を見るとき、決して楽ではないんですよね。
体やお金、色んなものが出て行くわけです。
それでも、その人を育てようと頑張ってくれているわけで、そこに感謝の気持ちを持つことが出来たら、いい関係でいられるんだろうなあ、なんて思ってみたり。
たいてい、後で気付くんですけどね。
いろんなことが起こる今日この頃。
自分のやってきたことなんかを思い出して、赤面したり、落ち込んでみたり、反省してみたり。
今思い返すと恥ずかしい出来事が多かったですが、それ一つ一つの経験を活かしながら、次の世代へバトンを渡していければいいなあ、なんて思うわけです。
自分がしてきた事は、もう取り戻せないですからね。
先輩も、仕事やめちゃった人もいるし。
返せる恩は精一杯返して、返せない恩は、次の世代へ返していって。
自分が気にかけてもらったように、ね。
うん、頑張ろう。
だらだらと、とりとめもない話を読んで下さってありがとうございます。
また、明日から頑張ります。
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